追悼:平原正樹さん ― 2008年08月03日 08時39分54秒
ASAHIネット(http://www.asahi-net.or.jp)のjouwa/salonからホットコーナー(http://www.asahi-net.or.jp/~ki4s-nkmr/ )に転載したものから。
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2008/07/30の夕方、福岡に着いた。翌日から岸田さんの講義のお手伝いで九
大に行くため。
夜、九大の荒木先生たちと会うことになっていた。
出かける前に、ホテルでメールをチェックした。
荒木先生から、後輩の平原が昨日亡くなったというメールが入っていた。
知力、体力、情熱をあのでかい体に満載した平原が?
そのまま座り込んで動けなかった。しばらくメールの返事もできなかった。
2008/07/29の夕方、ジョギングに行って倒れてそのままだったらしい。
享年48歳。
その夜は、平原を偲んで痛飲した。
平原は、日本のインターネットの基盤を作った一人。特にJPNIC(の前身JNIC)
は、平原が作ったとおれは思っている。
大学を出てしばらく事情に疎かったおれが、平原の名前をみたのが、JPNIC
のwhoisサービス関係のドキュメントだった。お、平原だと思った。後で知る
が、平原の大変な貢献があってJPNICの基礎ができた。
日本のみならず、アメリカのミシガン大学に行って、MERITネットワークで
も活躍していた。
ミシガンから福岡に戻り、ISIT(九州先端科学技術研究所、以前の九州シス
テム情報技術研究所)にいたときに、博多で飲んだのが平原と会った最後だっ
た。
さらにISITからCRL(通信情報研究機構、以前の通信総合研究所)に移って、
国分寺に住んでいると聞いた時、国分寺は府中の隣だから、いつでも会えると
思っていた。
父が亡くなったころからか。
ずっと長い長い悪夢を見ている気がしている。
菊池文村(きくちあやむら)さんもそう、五十嵐(いからし)さんもそう。おれ
より若い人が突然亡くなっていく。今年は弓手さんがそう。
たまさんはおれより年上だが、五十嵐さんがもう一度会いたい会いたいと言
っていて、とうとう会えずじまいだったので、たまさんとそうなっては心残り
が大きすぎるので、たまさん合宿と称して会いに北海道に行った。
たまさんはぼちぼち元気そうだったし、FAT'Nさんのもてなしもあり、大変
に楽しかった。やっと悪夢から覚めたと思った。
そしたら、平原だ。
この数日、痴呆状態だ。
日が経つにつれ、気分が重たくなってくる。
府中に帰ってきて、国分寺が近いせいでなおさらそう感じる。
すぐそこに平原がいたのに、もはや会えなくなってしまった。
「いつでも会えるは、もう会えない」
またしても、この言葉がおれを打ちのめす。
自分より若くて、才能も情熱も体力も知力も実績も人類社会への貢献度もは
るかに高い人が、突然、この世から、いなくなる。やり切れない。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
http://www.nic.ad.jp/ja/topics/2008/20080801-01.html
JNIC設立者 平原正樹氏のご逝去について
http://www.hirabaru.org/~masaki/index-jp.html
http://www.hirabaru.org/~masaki/resume.html
http://www.hirabaru.org/~masaki/publications.html
http://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/0305/main/004_main.html
http://www.merit.edu/
追伸:
もともと8月は母の初盆の行事をやったり、仕事も佳境に入ってくるなど、
ドタバタになる予定で、ウェブやブログの更新が滞ることが予想されていたが、
平原のことで、ますます更新する気がなくなったので、jouwa/salonのほうに
は書くかもしれないけど、表には出すのが面倒になって、たまにしか更新しな
いかもしれません。暑いしね。あしからず。
とか言いながら、タイミング的に出さないといけない話があれば、それは表
にも書くつもりですが。
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2008/07/30の夕方、福岡に着いた。翌日から岸田さんの講義のお手伝いで九
大に行くため。
夜、九大の荒木先生たちと会うことになっていた。
出かける前に、ホテルでメールをチェックした。
荒木先生から、後輩の平原が昨日亡くなったというメールが入っていた。
知力、体力、情熱をあのでかい体に満載した平原が?
そのまま座り込んで動けなかった。しばらくメールの返事もできなかった。
2008/07/29の夕方、ジョギングに行って倒れてそのままだったらしい。
享年48歳。
その夜は、平原を偲んで痛飲した。
平原は、日本のインターネットの基盤を作った一人。特にJPNIC(の前身JNIC)
は、平原が作ったとおれは思っている。
大学を出てしばらく事情に疎かったおれが、平原の名前をみたのが、JPNIC
のwhoisサービス関係のドキュメントだった。お、平原だと思った。後で知る
が、平原の大変な貢献があってJPNICの基礎ができた。
日本のみならず、アメリカのミシガン大学に行って、MERITネットワークで
も活躍していた。
ミシガンから福岡に戻り、ISIT(九州先端科学技術研究所、以前の九州シス
テム情報技術研究所)にいたときに、博多で飲んだのが平原と会った最後だっ
た。
さらにISITからCRL(通信情報研究機構、以前の通信総合研究所)に移って、
国分寺に住んでいると聞いた時、国分寺は府中の隣だから、いつでも会えると
思っていた。
父が亡くなったころからか。
ずっと長い長い悪夢を見ている気がしている。
菊池文村(きくちあやむら)さんもそう、五十嵐(いからし)さんもそう。おれ
より若い人が突然亡くなっていく。今年は弓手さんがそう。
たまさんはおれより年上だが、五十嵐さんがもう一度会いたい会いたいと言
っていて、とうとう会えずじまいだったので、たまさんとそうなっては心残り
が大きすぎるので、たまさん合宿と称して会いに北海道に行った。
たまさんはぼちぼち元気そうだったし、FAT'Nさんのもてなしもあり、大変
に楽しかった。やっと悪夢から覚めたと思った。
そしたら、平原だ。
この数日、痴呆状態だ。
日が経つにつれ、気分が重たくなってくる。
府中に帰ってきて、国分寺が近いせいでなおさらそう感じる。
すぐそこに平原がいたのに、もはや会えなくなってしまった。
「いつでも会えるは、もう会えない」
またしても、この言葉がおれを打ちのめす。
自分より若くて、才能も情熱も体力も知力も実績も人類社会への貢献度もは
るかに高い人が、突然、この世から、いなくなる。やり切れない。
ご冥福を心よりお祈りいたします。
http://www.nic.ad.jp/ja/topics/2008/20080801-01.html
JNIC設立者 平原正樹氏のご逝去について
http://www.hirabaru.org/~masaki/index-jp.html
http://www.hirabaru.org/~masaki/resume.html
http://www.hirabaru.org/~masaki/publications.html
http://www.nict.go.jp/publication/CRL_News/0305/main/004_main.html
http://www.merit.edu/
追伸:
もともと8月は母の初盆の行事をやったり、仕事も佳境に入ってくるなど、
ドタバタになる予定で、ウェブやブログの更新が滞ることが予想されていたが、
平原のことで、ますます更新する気がなくなったので、jouwa/salonのほうに
は書くかもしれないけど、表には出すのが面倒になって、たまにしか更新しな
いかもしれません。暑いしね。あしからず。
とか言いながら、タイミング的に出さないといけない話があれば、それは表
にも書くつもりですが。
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