王、万感のラストアーチ…藤崎台県営野球場、東尾、加藤初 ― 2009年09月26日 06時40分10秒
ASAHIネット(http://www.asahi-net.or.jp )のjouwa/salonからホットコーナー(http://www.asahi-net.or.jp/~ki4s-nkmr/ )に転載したものから。
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王貞治前ホークス監督。また入院になったりで心配ですが、長嶋と王のNHK
スペシャルも放送されたりしているので、以前、メモっていて書き忘れていた
ネタ。
王選手の現役最後のホームランは、熊本の藤崎台球場です。それを追った記
事がありました。
詳しくは、
http://kyushu.yomiuri.co.jp/sports/feature/tuioku/tu_903_090310.htm
王、万感のラストアーチ…藤崎台県営野球場
をどうぞ。
王のあとの読点は、おれが入れました。読みやすくなるから。
九州にいたころのライオンズ(西鉄、太平洋クラブ、クウンライター)は、ゴ
ールデンウィーク中の連戦をいまは無き平和台球場でやっていました。どんた
くシリーズと銘打たれた連戦です。
ゴールデンウィークのときは、博多どんたくという大きな祭りがあって(い
までも続いていて、日本有数の観客を集める祭りになっています)、福岡市は
お祭り気分になり、当然、平和台球場でのライオンズの試合では、観客も選手
もお祭り気分になり、みんな、ぶんぶんバットを振り回します。
平和台球場は狭いので、当たればホームラン。ライオンズはどんたくシリー
ズでは、ホームランで打ち勝つというのがいいパターン。
そして、どんたくシリーズのあとに行くのが、熊本の藤崎台球場なんです。
上記記事の説明に
--- ここから ---
両翼99メートル、中堅122メートルは当時、際だって広かった。
--- ここまで ---
とあるように、ここは広いんです。
ところが、ライオンズの選手は、平和台でホームラン打ちまくっていい気分
になってるから、頭の切り替えができず、藤崎台でも平和台と同じように振り
回す。
カキーン! 大飛球が外野に飛ぶ。「やった、入った!」と思ったら、フェ
ンスぎりぎりで捕られるんですよ。平和台なら入っているのに。
そしたら、むきになって、ますます振り回すの。
で、やっぱり、届かない。
ということが繰り返され、平和台で勝った分を吐き出してしまうんです。
というのが、おれの記憶に残る熊本の藤崎台球場です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/平和台野球場
によると、平和台球場は、両翼92メートル、中堅122メートルですね。センタ
ーは藤崎台球場と変わらないのか。もっと狭いと思っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/藤崎台県営野球場
福岡に球団があったころのライオンズは、もう多くの人が知らないと思うけ
れど、
http://ja.wikipedia.org/wiki/埼玉西武ライオンズ
には、説明がありますね。
これ、書いたかどうか忘れているし、調べるのも面倒なので、ざっと書く。
ライオンズが所沢に西武ライオンズとして移る時期は、九大の教養部(これ
ももう六本松からは、今年なくなった)時代で、18歳か19歳のころ。九大にラ
イオンズ研究会というサークルがあって、おれは幽霊部員的にちょこっと入っ
ていて、この新歓コンパが平和台球場であって、その日の試合は、当時、まだ
野村監督兼選手が率いていた南海ホークスとの試合でということを書き出すと
長いので、股の機械に。
とにかく、福岡からライオンズがいなくなるというので、九大ライオンズ研
究会は、福岡市中心部にある繁華街の天神(東京でいえば銀座)で、行かないで
くれという署名運動をやったんです。おれはその日、バイトか病気かズル休み
かで行ってないです(汗)。
署名運動実らず、ライオンズは所沢に行っちゃいました。
西鉄時代の栄光の成績は、ちゃっかり自分たちの歴史にするくせに、九州時
代のライオンズの選手は、どんどん放出して、西武、やり方、汚ねえと思いま
した。
若い優秀な選手をスカウトしまくって、古い選手を出して、球団イメージを
一新してと思えば、プロとして理解できますけどね。
それも、プリンスホテルにアマ時代から囲い込んで、後に西武ライオンズに
入れるんだから、やり方、けっこうエグいけどね。^^;
もう1つ。
東尾修とともに、太平洋クラブライオンズのエースだった加藤初が、長嶋巨
人に移籍するというときが、高校生のとき。同級生の阿南君と二人で、中村オ
ーナーの家に放火して加藤初のトレードを阻止しようという過激な案が出たん
ですが、「よっしゃ、もうやるしかないか」と思った時の九スポ(九州スポー
ツ)に、加藤初の手記が出たんです。
自分が巨人に行くのは、巨人が弱いからだと(前年、長嶋巨人は最下位だっ
た)。
九州男児のファンなら、弱い奴を助けに行くおれの気持ちがわかってもらえ
るだろうと。
おれの男気に免じて、このトレードを認めてくれと。
泣きました。\(^O^)/
のちに思えば、うぶでバカなおれらは、まんまとだまされたんだろうけど、
純真な高校生だから、「男、加藤初。巨人で死んでこい。骨はおれが拾ってや
る」などと、阿南君と二人で泣きました。
トレードで巨人から来た、関本と玉井がだめでさ。ほんとにもぉ。
で、翌年に巨人は最下位からリーグ優勝。加藤初は、巨人でノーヒットノー
ランを達成します。
これで、「男、加藤初。よくやった」と阿南君とうれしくて、また泣きまし
た。
一方、弱小ライオンズに残った東尾は、優勝からは遠い世界。
「東尾、かわいそー。野球人生、分かれ目だったのかな。なんとかしてやり
てえよな、東尾をよぉ」などと、何の力もないのに、そんなことをぐたぐだ阿
南君とだべってました。
などと思っていたら、西武ライオンズになって、東尾は何度も優勝、日本一
を経験するんですから、人生、何がどうなるかわかりませんね。
東尾修、加藤初は、おれのアイドルピッチャーでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東尾修
http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤初
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王貞治前ホークス監督。また入院になったりで心配ですが、長嶋と王のNHK
スペシャルも放送されたりしているので、以前、メモっていて書き忘れていた
ネタ。
王選手の現役最後のホームランは、熊本の藤崎台球場です。それを追った記
事がありました。
詳しくは、
http://kyushu.yomiuri.co.jp/sports/feature/tuioku/tu_903_090310.htm
王、万感のラストアーチ…藤崎台県営野球場
をどうぞ。
王のあとの読点は、おれが入れました。読みやすくなるから。
九州にいたころのライオンズ(西鉄、太平洋クラブ、クウンライター)は、ゴ
ールデンウィーク中の連戦をいまは無き平和台球場でやっていました。どんた
くシリーズと銘打たれた連戦です。
ゴールデンウィークのときは、博多どんたくという大きな祭りがあって(い
までも続いていて、日本有数の観客を集める祭りになっています)、福岡市は
お祭り気分になり、当然、平和台球場でのライオンズの試合では、観客も選手
もお祭り気分になり、みんな、ぶんぶんバットを振り回します。
平和台球場は狭いので、当たればホームラン。ライオンズはどんたくシリー
ズでは、ホームランで打ち勝つというのがいいパターン。
そして、どんたくシリーズのあとに行くのが、熊本の藤崎台球場なんです。
上記記事の説明に
--- ここから ---
両翼99メートル、中堅122メートルは当時、際だって広かった。
--- ここまで ---
とあるように、ここは広いんです。
ところが、ライオンズの選手は、平和台でホームラン打ちまくっていい気分
になってるから、頭の切り替えができず、藤崎台でも平和台と同じように振り
回す。
カキーン! 大飛球が外野に飛ぶ。「やった、入った!」と思ったら、フェ
ンスぎりぎりで捕られるんですよ。平和台なら入っているのに。
そしたら、むきになって、ますます振り回すの。
で、やっぱり、届かない。
ということが繰り返され、平和台で勝った分を吐き出してしまうんです。
というのが、おれの記憶に残る熊本の藤崎台球場です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/平和台野球場
によると、平和台球場は、両翼92メートル、中堅122メートルですね。センタ
ーは藤崎台球場と変わらないのか。もっと狭いと思っていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/藤崎台県営野球場
福岡に球団があったころのライオンズは、もう多くの人が知らないと思うけ
れど、
http://ja.wikipedia.org/wiki/埼玉西武ライオンズ
には、説明がありますね。
これ、書いたかどうか忘れているし、調べるのも面倒なので、ざっと書く。
ライオンズが所沢に西武ライオンズとして移る時期は、九大の教養部(これ
ももう六本松からは、今年なくなった)時代で、18歳か19歳のころ。九大にラ
イオンズ研究会というサークルがあって、おれは幽霊部員的にちょこっと入っ
ていて、この新歓コンパが平和台球場であって、その日の試合は、当時、まだ
野村監督兼選手が率いていた南海ホークスとの試合でということを書き出すと
長いので、股の機械に。
とにかく、福岡からライオンズがいなくなるというので、九大ライオンズ研
究会は、福岡市中心部にある繁華街の天神(東京でいえば銀座)で、行かないで
くれという署名運動をやったんです。おれはその日、バイトか病気かズル休み
かで行ってないです(汗)。
署名運動実らず、ライオンズは所沢に行っちゃいました。
西鉄時代の栄光の成績は、ちゃっかり自分たちの歴史にするくせに、九州時
代のライオンズの選手は、どんどん放出して、西武、やり方、汚ねえと思いま
した。
若い優秀な選手をスカウトしまくって、古い選手を出して、球団イメージを
一新してと思えば、プロとして理解できますけどね。
それも、プリンスホテルにアマ時代から囲い込んで、後に西武ライオンズに
入れるんだから、やり方、けっこうエグいけどね。^^;
もう1つ。
東尾修とともに、太平洋クラブライオンズのエースだった加藤初が、長嶋巨
人に移籍するというときが、高校生のとき。同級生の阿南君と二人で、中村オ
ーナーの家に放火して加藤初のトレードを阻止しようという過激な案が出たん
ですが、「よっしゃ、もうやるしかないか」と思った時の九スポ(九州スポー
ツ)に、加藤初の手記が出たんです。
自分が巨人に行くのは、巨人が弱いからだと(前年、長嶋巨人は最下位だっ
た)。
九州男児のファンなら、弱い奴を助けに行くおれの気持ちがわかってもらえ
るだろうと。
おれの男気に免じて、このトレードを認めてくれと。
泣きました。\(^O^)/
のちに思えば、うぶでバカなおれらは、まんまとだまされたんだろうけど、
純真な高校生だから、「男、加藤初。巨人で死んでこい。骨はおれが拾ってや
る」などと、阿南君と二人で泣きました。
トレードで巨人から来た、関本と玉井がだめでさ。ほんとにもぉ。
で、翌年に巨人は最下位からリーグ優勝。加藤初は、巨人でノーヒットノー
ランを達成します。
これで、「男、加藤初。よくやった」と阿南君とうれしくて、また泣きまし
た。
一方、弱小ライオンズに残った東尾は、優勝からは遠い世界。
「東尾、かわいそー。野球人生、分かれ目だったのかな。なんとかしてやり
てえよな、東尾をよぉ」などと、何の力もないのに、そんなことをぐたぐだ阿
南君とだべってました。
などと思っていたら、西武ライオンズになって、東尾は何度も優勝、日本一
を経験するんですから、人生、何がどうなるかわかりませんね。
東尾修、加藤初は、おれのアイドルピッチャーでした。
http://ja.wikipedia.org/wiki/東尾修
http://ja.wikipedia.org/wiki/加藤初
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_ ホットコーナーの舞台裏 - 2011年07月07日 22時14分58秒
ASAHIネット(http://asahi-net.jp )のjouwa/salonからホットコーナー(http://www.asahi-net.or.jp/~ki4s-nkmr/ )に転載したものから。
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もう消滅しちゃった福岡県立高校の同級生、阿南君からメールが来
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もう消滅しちゃった福岡県立高校の同級生、阿南君からメールが来
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